1990 FIFAワールドカップに出ていたJリーガー

サッカー

1990 FIFAワールドカップイタリア大会では前回と同じ組み合わせの決勝となり、ローター・マテウス率いる西ドイツ代表がアルゼンチン代表を下し3回目の優勝を飾ります。このイタリア大会にも後にJリーガーとなる外国人選手が出場していました。Jリーグが始まる3年前です。ここではその選手達を紹介したいと思います。なお、ブラジル代表は多数いるために別記事にしています。

フリオ・サリナス (スペイン代表)

1986、1990、1994年のワールドカップに出場しています。1986年大会も5試合で1得点をあげています。クラブではバルセロナでも活躍しています。当時のFCバルセロナはクライフ監督の元でエル・ドリームチームを形成していました。ロナルド・クーマン、ミカエル・ラウドルップ、フリスト・ストイチコフと共にサリナスも強力な攻撃陣を形成していました。Jリーグには1997、1998年の2シーズン横浜マリノスで活躍しています。リーグでは34得点と大活躍しています。当時、35歳のベテランでした。

Pedro Troglio ペドロ・トログリオ (アルゼンチン代表)

1994年にイタリアセリエBのアスコリより中央防犯(後のアビスパ福岡)に移籍します。1995年シーズンにJリーグ昇格に貢献して、1996年より晴れてJリーグでプレーをします。翌年からは母国のアルゼンチンのヒムナシアでプレーをします。(準優勝、6試合1得点)

Michael Baur ミヒャエル・バウアー

1997年に浦和レッズに加入します。オーストリア代表の超大物10番が移籍してきたと当時話題になりましたが、ホームシックの為にリーグ戦2試合で帰国しました。オーストリアでの実績は十分でしたが、海外でのプレーは浦和レッズとその後に同じドイツ語圏のドイツのハンブルガーSVでの1シーズンのみでした。ちなみに日本代表の高原直泰と1年間チームメイトでした。1990年のワールドカップでは21歳でメンバー入りしたものの出番はありませんでした。ちなみにオーストリア代表は後にジュビロ磐田に移籍するスキラッチにゴールを許し初戦でイタリア代表に破れています。

Ivan Hašek イワン・ハシェク(チェコスロバキア代表)

イタリア大会ではキャプテンとして5試合で1得点、W杯ベスト8に貢献しました。Jリーグでは1994,1995年にサンフレッチェ広島、1996年にジェフ市原で活躍しました。GK以外のポジションでプレー出来ましたが、日本では基本的にFWでプレーしました。母国では弁護士の資格も持っており、フランス語や英語にも堪能のインテリジェンスなプレーヤーでした。

Salvatore Schillaci サルヴァトーレ・スキラッチ (イタリア代表)

ワールドカップでは6得点で得点王になります。ワールドカップの1年前の88/89年シーズンはセリエBでプレーしていました。直前の89/90年シーズンでは初めてのセリエAユベントスでプレーして15得点で代表に滑り込みます。本大会ではジャンルカ・ヴィアリの不調からレギュラーになり、得点王となりイタリア代表の3位に貢献します。しかし、その後はユベントスやインテル・ミラノでは1シーズンで5、6ゴールしかあげられず、1991年を最後に代表に選出されなくなります。当然、1994年のアメリカ大会には出場していません。1994年のセカンドステージからジュビロ磐田に移籍します。Jリーグではゴールを量産しました。1995年にはブラジル代表の優勝時のキャプテン、カルロス・ドゥンガと共演します。

セルゲイ・アレイニコフ (ソ連代表→ベラルーシ代表)

ソ連代表として1986、1990年のワールドカップに出場しています。その後、ベラルーシ代表でも活躍しています。1993年のセカンドステージからガンバ大阪に加入します。ボランチとしてガンバ大阪の守備陣の立て直しに貢献します。1992年の欧州選手権にも出場しており、1990年にはセリエAのユベントスでもレギュラーとして活躍していました。

オレグ・プロタソフ (ソ連代表→ウクライナ代表)

アレイニコフと同様にソ連代表として1986、1990年のワールドカップに出場しています。その後、ウクライナ代表でも活躍しています。ガンバ大阪でも1993、1994年に所属して2シーズン連続二桁ゴールします。ガンバ大阪時代にはソ連は解体していましたが、当時はウクライナの現役代表でした。

アフリク・ツベイバ Akhrik Tsveiba (ソ連代表)

ワールドカップには1990年のイタリア大会のみの選出でした。広大なソビエト連邦の中の現在のジョージア出身でした。1990年にはウクライナのディナモ・キエフでプレーしていた関係でソビエト連邦崩壊後は独立国家共同体のCSIでプレーし、ウクライナ代表でもプレーしました。その関係で1994年のアメリカ大会のロシア代表には選出されていません。その後、1998年フランス大会の予選ではロシア代表としてプレーしています。4つの代表(出場内訳は下記)でプレーしている珍しい選手です。Jリーグでは1994年から1996年までガンバ大阪プレーしています。ボランチ、センターバックとして活躍しています。ガンバ大阪ではツベイバは同じソ連代表のプロタソフ、アレイニコフともプレーしています。3人はそれぞれ最終的にロシア代表、ウクライナ代表、ベラルーシ代表と袂を分かちあいます。

1990-1991 ソ連代表 18 (1)
1992 CIS 7 (1)
1992 ウクライナ代表 1 (0)
1997 ロシア代表 8 (0)

ステファン・タタウ (カメルーン代表)

1990年のイタリア大会、1994年のアメリカ大会に出場しています。Jリーグ準加盟の鳥栖フューチャーズに1995年から2年間プレーしています。Jリーグ昇格を果たすこと出来ず、フューチャーズの消滅とともに帰国してそのまま引退した。サガン鳥栖でもプレーを希望していましたが、高額年俸の影響か結局プレーしませんでした。ヨーロッパでプレーしていないアフリカ人選手が日本でプレーしためずらしい選手でした。

ピエール・リトバルスキー (西ドイツ代表)

ワールドカップは1982年、1986年、1990年と3大会に出場しています。優勝1回、準優勝2回のタイトルを獲得しています。この1990年のイタリア大会では優勝に貢献しています。1993年のJリーグの開幕時の唯一のワールドカップ優勝経験者でした。ジェフ市原などで活躍しています。

ギド・ブッフバルト (西ドイツ代表)

ワールドカップは1990年、1994年と2大会に出場しています。優勝したイタリア大会では決勝でアルゼンチ代表のディエゴ・マラドーナをマークして仕事をさせませんでした。そのため「マラドーナを止められる唯一の男」と呼ばれました。1994年のワールドカップアメリカ大会のあとに浦和レッズに移籍します。レッズの守備陣を立て直し、躍進を支えます。その後、監督としてはレッズに天皇杯とリーグ優勝のタイトルをもたらしました。

ウーベ・バイン (西ドイツ代表)

ワールドカップには1990年のイタリア大会のみの選出でした。1994年のセカンドステージからブッフバルトとともに浦和レッズに加入しました。1995年には1990年の西ドイツ代表のコーチだったオジェックの下で福田正博とホットラインを形成して年間4位になります。福田正博は日本人初のJリーグ得点王になります。浦和レッズ時代は明らかに運動量は少なくなっていましたが、スルーパスは健在でした。

ドラガン・ストイコビッチ (ユーゴスラビア代表)

ユーゴスラビア代表として1990年、1998年の2大会に出場しています。イタリア大会ではエースとして活躍します。準々決勝ではマラドーナ率いるアルゼンチ代表と対戦するも惜しくもPK戦で敗れます。1994年のセカンドステージから名古屋グランパスで活躍します。アーセン・ベンゲル就任まではレッドカード、イエローカードを貰うことも多々ありましたが、その後はクラブに天皇杯など多くのタイトルもたらします。29歳から引退するまでJリーグでプレーしています。一番脂の乗りきった時にプレーしたヨーロッパ人選手はとても稀有な存在でした。

ゲーリー・リネカー (イングランド代表)

前回大会の1986年のメキシコでは6得点で得点王でした。1990年のイタリア大会ではチームを3位に導きました。4得点を記録してワールドカップ通算12試合出場10得点。2020年現在、ワールドカップの通算ゴールは8位です。1990年には5位でした。

1993年のJリーグの開幕時の最大のスター選手でした。前年の1992年の欧州選手権にも出場しています。名古屋グランパスで1994年までプレーしましたが、思ったほど活躍出来ませんでした。海外メディアがJリーグを「年金リーグ」と呼んでいたのは全盛期を過ぎたリネカーの活躍を皮肉ったものでした。年俸は3億円でした。

ロレンツォ・スターレンス (ベルギー代表)

1990年、1994年、1998年とワールドカップに3大会連続出場しています。80年代後半から90年代のベルギー代表の攻撃の要だったのがシーフォ、守備の要だったのがこのスターレンスでした。代表キャップが最終的には70となったことからも中心選手だったのが分かります。Jリーグでは2001年に当時J2の大分トリニータでプレーしています。リベロとして活躍しますが、9月に家庭の都合で退団します。

皇甫官 (韓国代表)

ワールドカップは1990年のイタリア大会のみの出場でした。スペイン戦では1ゴールを決めています。大分トリニータの前身のFC大分で1996年から2年間プレーします。その後、監督も歴任します。

黄善洪 (韓国代表)

1990年から2002年まで4大会連続でワールドカップにメンバー入りしました。Jリーグではセレッソ大阪、柏レイソルでプレーしています。当時はまだ大学生でした。

明甫 (韓国代表)

1990年から2002年まで4大会連続でワールドカップにメンバー入りしました。Jリーグではベルマーレ平塚、柏レイソルでプレーしています。柏レイソル、韓国代表でそれぞれキャプテンも務めています。そして、2013年には代表監督となります。彼も当時は大学生でした。

ジェラルド・ファネンブルグ (オランダ代表)

1988年の欧州選手権の優勝メンバーでもあります。ワールドカップはこのイタリア大会のみの出場でした。あのルート・フリットやフランク・ライカールトと強力な中盤を構成した選手でした。Jリーグには1993年に当時JFL(2部)時代のジュビロ磐田に移籍します。Jリーグ昇格に貢献し、その後1996年までプレーします。ジュビロ磐田ではMFだけではなくリベロとしてもプレーします。最終ラインからのロングパスは他のチームへの脅威になりました。1995年からはブラジル代表キャプテンのドゥンガ、ワールドカップイタリア大会の得点王のスキラッチとともにジュビロ磐田の黄金時代の基礎を作りました。

ハンス・ヒルハウス (オランダ代表)

ワールドカップはこのイタリア大会のみの出場でした。1995年、1996年にガンバ大阪で活躍しています。1995年には20得点と活躍しています。

まとめ

後にウクライナ代表、ロシア代表、ベラルーシ代表になる選手がソ連代表として同じチームで活躍しています。2022年にはロシアはウクライナに侵攻し、戦争となります。ベラルーシはロシアの同盟軍としてウクライナ侵攻のために基地などをロシアに提供しています。チェコスロバキアはビロード離婚を経てチェコとスロバキアとして別々の国になり、ユーゴスラビア連邦も7つの国になりました。そして、優勝した西ドイツは東ドイツと合併してドイツ連邦となりました。

スポーツは平和があってこそと感じる昨今です。

1986 FIFAワールドカップに出ていたJリーガー
1986 FIFAワールドカップに出ていた外国人Jリーガーをピックアップしてみました。







 

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