1986 FIFAワールドカップに出ていたJリーガー

サッカー

1986 FIFAワールドカップメキシコ大会ではディエゴ・マラドーナ率いるアルゼンチ代表が西ドイツを下し2回目の優勝を飾ります。このメキシコ大会にも後にJリーガーとなる外国人選手が出場していました。Jリーグが始まる7年前です。ここではその選手達を紹介したいと思います。なお、ブラジル代表は多数いるために別記事にしています。

エクトル・エンリケ (アルゼンチ代表)

厳密にはJリーグではプレーしていませんが、1994年にJFLでJリーグ準加盟の鳥栖フューチャーズでプレーしています。

セルヒオ・バティスタ (アルゼンチ代表)

彼も厳密にはJリーグではプレーしていませんが、1993、1994年にJFLでJリーグ準加盟の鳥栖フューチャーズでプレーしています。94年はシーズン途中から監督を兼任しています。後にアルゼンチ代表の監督にもなっています。ザッケローニが日本代表監督に就任した直後にアルゼンチ代表から勝利しましたが、その時のアルゼンチ代表の監督はバティスタでした。

ペドロ・パスクリ (アルゼンチ代表)

1994年にJFLでJリーグ準加盟の鳥栖フューチャーズでプレーしています。

セルゲイ・アレイニコフ (ソ連代表→ベラルーシ代表)

ソ連代表として1986、1990年のワールドカップに出場しています。その後、ベラルーシ代表でも活躍しています。1993年のセカンドステージからガンバ大阪に加入します。ボランチとしてガンバ大阪の守備陣の立て直しに貢献します。1992年の欧州選手権にも出場しており、1990年にはセリエAのユベントスでもレギュラーとして活躍していました。

オレグ・プロタソフ (ソ連代表→ベラルーシ代表)

アレイニコフと同様にソ連代表として1986、1990年のワールドカップに出場しています。その後、ウクライナ代表でも活躍しています。ガンバ大阪でも1993、1994年に所属して2シーズン連続二桁ゴールします。ガンバ大阪時代にはソ連は解体していましたが、当時はウクライナの現役代表でした。

 

フリオ・サリナス (スペイン代表)

1986、1990、1994年のワールドカップに出場しています。1986年大会も5試合で1得点をあげています。クラブではバルセロナでも活躍しています。Jリーグには1997、1998年の2シーズン横浜マリノスで活躍しています。リーグでは34得点と大活躍しています。当時、35歳のベテランでした。イニエスタがヴィッセル神戸で活躍する20年前の話です。

ミカエル・ラウドルップ (デンマーク代表)

ワールドカップにはこの1986年大会と1998年の2回出場しています。12年ぶりとなるのはデンマークがヨーロッパの小国のためでした。スペインのバルセロナ、レアル・マドリーに所属したあと、1996年にJFLのヴィッセル神戸に移籍します。1997年にJリーグに昇格し、半年後にオランダのアヤックスに移籍します。約1年間でしたが、素晴らしいプレーを見せてくれました。Jリーグに移籍した理由は「イタリアやスペインでは街中でもプライベートがなかったから」で神戸での生活をかなり気に入っていたようです。しかし、1998年のワールドカップフランス大会の予選の為にヨーロッパに移動する負担を軽減するためにオランダのアヤックスに移籍しました。弟のブライアン・ラウドルップとともに見事予選を突破します。

ダリオ・ペレイラ (ウルグアイ代表)

ワールドカップには1986年のみ出場しています。1990年から1992年までガンバ大阪の前身の松下電器のサッカー部に所属しています。ウルグアイ人ですが、ブラジルのフラメンゴやパルメイラスに所属していました。そのためスカウティングの対象になったと思われます。

エドゥアルド・アセベド (ウルグアイ代表)

ワールドカップには1986年のみ出場しています。1992年にコンサドーレ札幌の前身の東芝のサッカー部に所属しています。

ピエール・リトバルスキー (西ドイツ代表)

ワールドカップは1982年、1986年、1990年と3大会に出場しています。優勝1回、準優勝2回のタイトルを獲得しています。この1986年のメキシコ大会では5試合に出場しています。1993年のJリーグの開幕時の唯一のワールドカップ優勝経験者でした。ジェフ市原などで活躍しています。

ウーベ・ラーン (西ドイツ代表)

ワールドカップは1986年のメキシコ大会のみの出場でした。1986-87シーズンのブンデスリーガ得点王に輝きますが、その後伸び悩みます。1993年のセカンドステージから浦和レッズに加入します。得点力不足を解消を期待されましたが、当時の森監督がリベロのコンバートします。ブンデスリーガ得点王をリベロにコンバートする感覚は理解するのが難しいです。結局活躍できないまま翌シーズンに退団します。

ゲーリー・リネカー (イングランド代表)

1993年のJリーグの開幕時の最大のスター選手でした。前年の1992年の欧州選手権にも出場しています。名古屋グランパスで1994年までプレーしましたが、思ったほど活躍出来ませんでした。海外メディアがJリーグを「年金リーグ」と呼んでいたのは全盛期を過ぎたリネカーの活躍を皮肉ったものでした。年俸は3億円でした。

1986年のワールドカップでは得点王、1990年のイタリア大会ではチームを3位に導きました。ワールドカップ通算12試合出場10得点。2020年現在、ワールドカップの通算ゴールは8位です。1990年には5位でした。

パウロ・フットレ (ポルトガル代表)

ワールドカップは1986年の1回のみ出場しています。翌年のバロンドールでは得票数2位になりますが、その後伸び悩みACミランなどのビッグクラブにも在籍していますが、大きな活躍は出来ませんでした。1998年に横浜フリューゲルスに所属しています。13試合で3ゴールと期待に応えることは出来ません。帰国に際して「日本はやはり野球の国だった」と発言しています。ルールも分かっているとも言っていました。

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